天の果て 地の限り1

1.DE PROFUNDIS CLAMAVI~深き淵より我叫びぬ~1
愚考、あやまち、罪。
私の心に潜む悪意が今の私を動かす

私の罪深さを断罪するのはあなたという存在だけ
どこにいてもあなたを想う私の心には今もかわりはないはずなのに

またずいぶんと遠い旅にでてしまいました

これは人気のない丘になった景色の良い場所に皇帝によって作られた墓所でのささやかな出来事である。

よく晴れたある日。
珍しくそこには人の姿があった。

その場所に訪れた人物は墓碑銘を指先で辿りながら長い邂逅に想いを馳せていた。

墓碑銘には”Mein Freund(我が友)”と添えられてある。

さらにその墓の主は生前に遡り、軍務尚書、統帥本部総長、宇宙艦隊司令長官、
帝国軍最高司令官代理、帝国宰相顧問の称号までも皇帝陛下直々に贈られたと言う。

そう、それは皇帝陛下自らが親友と認めた
ジークフリード・キルヒアイスに与えられた場所だった。

しばらくそこでじっとしていたが、ふとその墓の脇に添えられた花束に目をとめた。

「…アンネローゼ様が、来ておられたのか」
そう小さな呟きを漏らすと彼は花束の中からそっと一厘花を手にとってその匂いを嗅いだ。

この花は彼が生まれて初めて女性に贈った花。
アンネローゼに捧げた花だった。

父の世話した蘭を彼は毎年アンネローゼの誕生日に贈り続けていたのだ。

今、墓の前にいる人物。
それは本来墓の中にいる筈のジークフリード・キルヒアイス、その人だったのである。

しばらく物思いに耽っていたキルヒアイスだったが
人目につかないようにそっとその場を離れた。

キルヒアイスは自分を死んだことにして数年帝国と同盟との行き来を続けていたが
唯一自分の生存を知る過去の知人から呼び出しを受け新首都・フェザーンへと訪れていたのである。

キルヒアイスにとってこれがローエングラム王朝になってから初めてのフェザーンへの来訪になる。

自分が生きていることを知られないため
キルヒアイスは極力フェザーンへの出入りは控えていたのだが、
2年の月日を経て、ローエングラム体制が整いつつある今
知人の呼び出しを機会にようやくフェザーンへやって来たのだ。

自分の墓所を訪問した翌日、キルヒアイスは夜半過ぎを狙って
人目を避けるようにして知人の住む屋敷を訪れた。

呼び出しを受けた過去の知人とは、バウル・フォン・オーベルシュタイン。
それはキルヒアイスの死を偽装した共犯者の名前だった。

キルヒアイスは入り口を通るでもなく
オーベルシュタインの私室へ勝手したたる他人の家のように足を踏み入れると
窓際で佇んでいたオーベルシュタインが庭先から現れたキルヒアイスの姿にようやく気がついた。

「…ようこそ」
その言葉にキルヒアイスは返事をかえすように小さく頷きを返し
招かれるままオーベルシュタインの部屋へと入っていく。

リビングのテーブルセットに向かい合って腰を下ろすと
視線を合わせずしばらく沈黙を守っていた二人だったが、
その沈黙を破るようにオーベルシュタインが話しを切り出した。

「あれから2年…か」
「…そう、なりますね」

それは今は無きガイエスブルグ要塞での旧貴族連合との戦いの後の戦勝式典で起こった悲劇のことである。
だがそれが作られた悲劇だったことを知る者はこの二人しかいない。

二人の共犯の理由は唯一つ。

”全てはローエングラム候の御為に…”
ただ、それだけだ。

『NO2不要論』
それは決して表にでることはなかったが、その昔二人が言い争ったのは1度や2度の話ではない。
話し合いの決定打となったのはキルヒアイスとラインハルトの関係である。

オーベルシュタインはその事実をわざわざ調べるまでもなく二人の関係を理解していた。
だがその関係は来るべきローエングラム王朝の存続のためにはあってはならないものだった。

”死こそ全てを分かつのだ。…古い歴史の神の宣誓書にもそうある”

キルヒアイスは死ななくてはならなかった。
生きてその身をラインハルトと分かつことなど二人にとって不可能なことだったからだ。

ラインハルトとの諍いの後、オーベルシュタインに話を持ちかけたのも実はキルヒアイスだった。

「私にも新帝国のため…皇帝のため、その死をもって出来ることがあります」
それがガイエスブルグ要塞で起きた悲劇の引き金となってしまったのである。

ガイエスブルグ要塞でのキルヒアイスの死は予定されたものだった。

ブラウンシュバイク公の棺を持参したアンスバッハの身体検査でその武器を密かにすりかえたこと。
すり返られた武器によってキルヒアイスは一時的な仮死状態になっただけだったのだ。

オーベルシュタインがアンネローゼに連絡をとって
悲しみに打ちのめされているラインハルトをキルヒアイスの棺から引き離し
あらかじめ用意をしておいた偵察機に乗ってキルヒアイスはガイエスブルグ要塞を離れた。

そしてそのまま2年の月日が流れた。

その間にキルヒアイスが水面下であげた同盟・帝国・フェザーンでの諜報活動の成果は
今までたてたその武勲にも匹敵するだろう。

キルヒアイスとオーベルシュタインはその連携をもって
地下の情報ネットワークを同盟・帝国・フェザーンに構築させたのだ。

それはその昔『帝国史上最も優秀で危険』とまで証された
ジークマイスターとミヒャールゼンが作り上げたといわれる
スパイ網に決して及ばないものではない。

その情報を活用しラインハルトの傍で辣腕を振るっていたのはオーベルシュタインだったが
それはキルヒアイスから齎される正確な情報があってこそ可能にしたものだ。

「あなたからの呼び出しなんて…この2年で初めてのことです。
今更私に一体なんの話があるというのですか?」

2年間の回想を打ち破ったのは薄暗い室内から放たれたキルヒアイスの声である。
そこでふと我にかえったオーベルシュタインは早速キルヒアイスに用件を切り出した。

「…帝国内に不穏な動きがある」
穏やかでないオーベルシュタインのその言葉にキルヒアイスは目を剥いた。

「とは、いっても内乱分子の事ではない…卿のことだ」
「…私?一体、一度死んだ人間になにがあるというのです?」
オーベルシュタインの言葉に喉を小さく鳴らしておどけたようにキルヒアイスが聞き返す。

「卿が実は生きている…という噂が流布し始めているということだ」
「…フッ、そんなものはただの噂でしょう。私をわざわざ呼ぶまでもなく
あなたお抱えの内国安全保障局とやらにでも噂の元を断たせればいい」

しばしの沈黙が流れた後オーベルシュタインの次の言葉を待っていたキルヒアイスだったが
その思考を読むようにキルヒアイスがさらに話を続ける。

「それとも…噂の元である私を今度は本当に殺しますか?」
クスリと笑ってキルヒアイスはオーベルシュタインにそう告げた。

”1度は死んだことになったこの身。最早嘆く者もいなく、帰るべき場所もない。
もう1度死んだところで何程のことか…宇宙を手に入れる、そういったあの人の願いはすでに果たされた。
あの人に会えないこの世になど私にはなんの未練もない”

「その気があるなら2年前にやっていた…」
溜息まじりにそう答えたのはオーベルシュタインである。
意外なオーベルシュタインの発言にキルヒアイスは少し驚きをもってオーベルシュタインを見やった。

「卿はこの2年…陛下のお傍を離れて、穏やかな時を過ごせたか…?
陛下が同じようにこの2年過ごしていたと…卿は、本当にそう思っているのか?」

「…貴方にッ…貴方に一体なにが分かるというんです!?私たちのなにがッ」
オーベルシュタインのその言葉に思わず声を荒げて反論するキルヒアイスである。

この2年、キルヒアイスが心穏やかになど暮らせた訳がない。

キルヒアイスからラインハルトの記憶が消える訳でもなく、
離れた距離の分だけその想いをつのらせてキルヒアイスは眠れない夜をずっと過ごしてきた。

夜毎ラインハルトが夢に現れてはキルヒアイスを悩ませる。

そんな気が狂いそうになる日々を、キルヒアイスはラインハルトと揃いの懐中時計を握り締め
羊の数を数えるように何度もラインハルトの名前を唱えて過ごしてきたのである。

キルヒアイスは胸元に秘めてある懐中時計に洋服の上からそっと手を合わせ
胸元を押さえるようにしてそれを握りこむ。

オーベルシュタインには何故かその様子が
懐中時計をいつもその手にいじらせているラインハルトの姿とかぶって見えていた。

オーベルシュタインはそのまま首を振ってさらに話を続ける。

「…今の陛下は、私たちの望んだ陛下ではない」
そしてオーベルシュタインはそう口を開いたのだった。

1.DE PROFUNDIS CLAMAVI~深き淵より我叫びぬ~2
キルヒアイスが死んだことによりアンネローゼからも決別されたラインハルトはまるで人が変わった。

以前にも増してまるで貪るように戦いを求め、戦場へと先頭をきって赴き、
感情を捨てたかのような非情な決断もことなくしてみせる。

まるでその義務を果たすかのように。

誰もが見ても完璧といえる状態だ。
以前との様子の違いなど他人の目からみれば気づくものではない。

だから最初はオーベルシュタインも
ラインハルトの異変に気づくことが出来なかった。

「卿のせいだ…卿はあの時、陛下の大切なものを奪っていってしまったのだ」

それは人間としてもっとも大切な感情。
他人に興味を示すことがなかったラインハルトの中に目覚めたただ一つの感情である。

アンネローゼとキルヒアイス。
このキーワードこそラインハルトの中にある人間的な感情の全てだ。

キルヒアイスとアンネローゼを失ったラインハルトは自分すら顧みる事をしない。

オーベルシュタインが後継者問題の話をもちかけた時、
眉ひとつ動かさないままのラインハルトの一笑に終わった。

『玉座など欲しい者が奪い取ればいい…余の首を縦に振らせた者が次の王となる。
血統などで真の王など生まれやしない…ゴールデンバウム王朝がいい証拠ではないか』

さもつまらないとばかりにその話はそこで一方的に打ち切られてしまったのだ。

「…今、あの御方の目は未来ではなく過去に向けられている。
未来に生きようとしていない…あれでは、ダメだ」

ラインハルトの薄氷の上に立ったような危ういバランスの精神状態を
オーベルシュタインに決定づけたのはキュンメル事件だった。

オーベルシュタインには読みきれてはいなかった。

ラインハルトとキルヒアイスのその関係。
光と影は常に同時にこそ存在するものだという必然を。

「…それで、私にどうしろというのです?」
キルヒアイスは強い視線をオーベルシュタインに向けながらさらに言葉を続けた。

「私はすでに死んだ過去の人間…そして私もまた過去に生きる者。
そんな私に一体なにが出来るというんですか、あなたはッ!私には未来など必要ない!」

それはキルヒアイスが吐きだすように口にした生々しい感情の吐露だった。

”どれだけ私があの人を愛したか…そしてどれだけの日々、私があの人を想い続けたか。
過去にしか愛しいあの人はいない…だから私は過去をずっと見続ける…そう、ずっとッ”

「…それが卿の本音か」
「………ッ」
思わず口にしてしまったその言葉にキルヒアイスは口を押さえて先の言葉を飲み込んだ。

キルヒアイスのその様子にオーベルシュタインはテーブルに肘をのせて手を組むと
顎をのせてさらに話を本題へと進める。

「今この新帝国には未来が必要なのだ…卿もそう思わないか?
分かたれた魂はもとの在るべき姿に戻り今を、そして未来のために生きるべきだ、と…」
「なにをいって…」

オーベルシュタインの言葉にキルヒアイスが返事を返そうと
うつむき加減になっていた顔を上げた時である。

キルヒアイス険しい表情を浮かべて辺りを見回すと、
静寂を保っていたはずの庭からにわかに人の気配を感じとる。

”まさ、か…これはッ!?”
キルヒアイスはその時初めて自分がオーベルシュタインにおびき出されたという事実に気がついた。

「戻られよ…キルヒアイス提督。そして本来の自分の姿を思い出せ」
「冗談ではありません…ッ私は…私は、二度と戻らないッ」
キルヒアイスはそう告げると席を立ちあがり銃を手にしてカーテン越しに辺りを見回した。

”…数が多い。だが…今ならまだ気づかれずになんとか逃げられる”
そうしてキルヒアイスは決死の思いでオーベルシュタインの屋敷を脱出したのだった。

ここで、話は少し前に遡る。

『ジークフリード・キルヒアイスは生きている…』
この噂が上層部で話題に上ったのは皇帝・ラインハルトの居城、獅子の泉の会議室でのことだった。

皇帝ラインハルトがすでに退出した会議の後に
残された面々でその噂について話しあうことになったのである。

「…有り得ない話だ。我々のそのほとんどがキルヒアイスの最期を
見届けているというのに…全くもって馬鹿馬鹿しい」
そういって腕を前に組んだまま首を振ってみせたのはロイエンタールだ。

「ですが…近頃では、その噂が広まりつつあって陛下のお耳に入るのも時間の問題かと思われます…」
ミュラーのその言葉に会議室の中にざわめきが起こる。

ラインハルトにキルヒアイスの話題が禁忌も同然というのは
皆もすでに暗黙の了解の域にある話だからだ。

それがよもやこのような話題であってはなんとしてでもラインハルトの耳に入れる訳にはいかない。

「まずい…それはまずいぞ。なんとか噂の出所を掴めないのか…?このままではッ」
ミッターマイヤーが皆を見回しながらそう告げると
憲兵総監を務めるケスラーが捜査状況を皆に報告し始める。

「…実は、それが全くのバラバラなのだ。
あまりに無作為に流されているため発信源がまるで特定できない」
内国安全保障局も動いているが、未だその噂の出所が判明できないとのことだった。

「ここ獅子の泉をはじめ…噂が上層部に集中しているというのがいささか気になる…」

マスコミや一般にはまるで流通のない噂。
それが直接ここに入っていることからみて内部の人間がその情報操作をしていることは十分考えられる。

「だが…噂自体になんのメリットもない。そこが問題なのだ」
ケスラーの言葉に思案にくれる会議室の面々だったがその時皆は揃って同じ考えに取りつかれていた。

”…ジークフリード・キルヒアイスが生きていたら”

キルヒアイスの死後そう思わずにいられた人間はおそらくここには誰もいないだろう。
失って初めて実感したその存在の希少性。

ラインハルトと今のメンバー達の間の緩衝剤となりいつも自然にその場を収めていた。
しかも皆にはそれと気づかせることもなく…だ。

そんなキルヒアイスの代わりになれる人間などどこにもいなかった。

”ジークフリード・キルヒアイスは特別だ…”
皆が口に出さずともそう思っていた。

戦略と戦術に於いてもその実力はすでに証明されており、
戦闘に関しては射撃をはじめ白兵戦に於いても右に並ぶ者なしとまでいわれた実力者だ。

ラインハルトの親友でありいつもその隣に当然のようにあった存在。

「だが…もし、本当に生きているとしたら何故陛下の下に戻らない…?」
「馬鹿な…こんな根も葉もない噂を信じるつもりか?ロイエンタールッ」
ロイエンタールの発言に隣に座っていたミッターマイヤーが食って掛かる。

「…落ち着け、たとえばの話だ」
「だが、ここで話あっても埒はあくまい…とにかくッ
出来れば陛下のお耳に入るまでにこの噂の出所を探らねば」

そういってミッターマイヤーが話を締めくくろうとした矢先のことである。

ミッターマイヤー宛に通信兵からの連絡が入ってきた。
送られてきた内容をミッターマイヤーが何気なく手元のモニターで再生させた。

「…なッ、これはッ!?」
ミッターマイヤーが画面に釘付けになったまま腰をあげ
そのまま食い入るようにその画面を見つめている。

「なんて、ことだ…これは一昨日の映像ではないか…ッ」
「どうした?ミッターマイヤー…なにかトラブルか?」

ただ事ではないミッターマイヤーの様子にロイエンタールが声をかけると、
ミッターマイヤーが少し身体を震わせて画面を指差しながら言葉を返した。

「キルヒアイスだ…ここにキルヒアイスの姿が…
しかも、これは一昨日前のフェザーン市内で撮影されている!!」
「おい、なにをいって…」
ミッターマイヤーの叫ぶような声に皆が目を剥いてミッターマイヤーの見ているモニターの前に集まった。
そしてそこに映し出されていた、その姿。

「…ジークフリード・キルヒアイスッ!」
2年前と比べて少し大人びた精悍になったその姿に皆は驚かずにはいられなかった。

そうして噂の決定打はこの会議室の中で明らかになったのだった。

「ケスラー、このモニタの裏をとれ…ッ!事実を確かめるのだ。
もし、もしこれが事実ならばなんとしても陛下にお知らせせねばならぬ…!!」

ミッターマイヤーのその言葉にはっきりと頷きを返すとケスラーは画像データを手に会議室を離れた。

会議室にいた誰もが興奮していた。

ジークフリード・キルヒアイスが生きて再びラインハルトの下へ戻れば
このローエングラム王朝は磐石のものとなる、と。

「………」
騒然となった会議室の中で、ただ一人オーベルシュタインだけが静かにその様子を見守っていた。

ケスラーから一昨日のキルヒアイスの画像データについて
確実な裏づけが得られたのは翌日になってからのことだった。

ラインハルトにその報告をするため皆を代表して
ミッターマイヤーとロイエンタールが、ラインハルトの下に訪れていた。

執務室で執務をこなすラインハルトの傍では
すでに噂を耳にしている秘書官であるヒルダが不安げにその様子を見守っている。

「…今、なんといった?」
一連の報告を終えたミッターマイヤーに浴びせられたのは目を剥いたラインハルトが放った冷たい一声だった。

「すべて事実です…詳細は、こちらの資料に」
「馬鹿な…ッ」
ラインハルトはロイエンタールの差し出した資料を手を払って跳ね除ける。
そして拳を震わせてさらに声を張り上げた。

「有り得ない…ッ一体なにを、世迷言をいっておるのだ、卿らは…ッ!」
ラインハルトの豪奢な金髪が宙を舞い、普段ほとんど表に出なくなっていた本来のラインハルトの気性が
ここになって露わになる。

「…陛下は以前、おっしゃいました。キルヒアイスは自分を置いて先に死ぬ訳がない、と」
「ええい…ッ下がれッこれ以上なにも聞きたくない!」

ラインハルトのその言葉にミッターマイヤー達が従わない訳にもいかず
ラインハルトに一礼するとその場をあとにした。

執務室にはラインハルトが跳ね除けた資料が散乱していた。

あまりの衝撃的な話にラインハルトはその息を乱れさせ短く荒い息を連続的に吐き続ける。

部屋に残されたヒルダが足元に散乱する書類を拾い上げてその胸元にまとめた時
それまで沈黙の中にあったラインハルトがようやくその口を開いた。

「…今日の執務は、これまでとする」
有無を言わせないラインハルトの言葉にヒルダが頷きを返すと一礼してそのまま出口へと背を向けた。

「すまないが…その資料は置いていってくれ」
そして付け足すようにラインハルトは背中を向けたヒルダにそう告げたのだった。

執務室に取り残されたラインハルトは
しばらくの間その書類に目を向けることも出来ずに途方にくれていた。

”キルヒアイスが…生きて、いる?オレはまた悪い夢の続きでも見ているのか?”

自分の手を眺めながらラインハルトはキルヒアイスの最期を見届けた時のことを思い出す。
あの時ラインハルトの手の平はキルヒアイスの血で染まっていた。

『ラインハルト様…』
今日まで一瞬たりとも忘れたことはない。
その姿、その声、そして思い出の数々。

何度も夢にみた。
誰よりも近くにいて、そして二人はいつも二人でいて一つの存在だった。

そして温もり。
体温を分け合うように身体を重ねた日々。

『二人で同じ夢をみよう…』
それから、ずっと二人は一緒だった。
それが永遠に続くものだとラインハルトはなぜかそう思い込んでいた。

ガイエスブルグ要塞でのキルヒアイスの死をその目にしてしまうまでは…

”死んでも、生きても…オマエはオレを悩ませる。オマエだけが”
胸元の懐中時計を握り締めそんな思いにかられたラインハルトだった。

”…もう夢でもなんでもいい、オマエに触れたいッ”
そうして意を決したラインハルトは机の上にまとめられた書類にようやく目を通し始めたのだった。

結論としてはその事実を確かめることは実に簡潔なことであった。
答えはキルヒアイスの墓所にある。

半永久保存にされた棺はおそらくそのままキルヒアイスの姿を残していることだろう。
その遺体がキルヒアイス自身かどうかなど今の現代医学で証明することはたやすいことだ。

だがキルヒアイスの墓を暴くなどラインハルトにはとても考えられない。

その上…

”それに変わる確実な方法もない…”

いろいろと交錯した思いに駆られながら
ラインハルトは長い間執務室で思案することになったのである。

1.DE PROFUNDIS CLAMAVI~深き淵より我叫びぬ~3
その日の夜半過ぎのことである。

ミッターマイヤーはラインハルトに突然深夜の呼び出しを受けたのだ。
待ち合わせ場所へ向かう途中でミッターマイヤーはロイエンタールと出くわした。

「ロイエンタール…おまえもまさか、陛下に?」
「ああ…おまえもか?ミッターマイヤー…
だが、待ち合わせがここというのは…いささか気になるな」

そんな会話をしながら二人はラインハルトとの待ち合わせの場所へと急いだ。

そこはキルヒアイスの墓所。
月明かりに照らされる墓の前にはすでにラインハルトの姿があった。

少し傍を離れて控えているのは親衛隊長のキスリングである。

「…すまないな、二人共…こんな夜更けに」
「いえ…」
そしてミッターマイヤーとロイエンタールはラインハルトに一礼すると
その背後に立ってキルヒアイスの墓の前に佇んだ。

「他に確実な方法がない…だがあまり人目につくやり方はしたくない…すまないが、手伝ってほしい」
「…陛下?」

「これから墓を暴く…」
「………ッ」
その言葉に二人は激しい驚きとともに大きく目を見開いた。

だがそういってラインハルトは二人の前でキルヒアイスの墓の前で屈み込むと
美しい指先を泥にまみれさせ土を掻くようにしてラインハルトが墓を掘り始めたのだ。

あまりのラインハルトの姿に慌ててミッターマイヤーが止めに入った。

「陛下…お待ちをッ」
「…これしか、これしか自分を納得させられる方法が見当たらないのだ。
親友の墓を暴くなど、卿らからすれば言語道断かもしれない…それでも、余はッ」

”これが現実だという…キルヒアイスが生きている証が欲しいのだッ”

自らの血を吐き出すようにそう告げるラインハルトのその言葉。
キルヒアイスの棺を見るその瞬間を見逃さないかのように見開かれた目。

そしてラインハルトの言葉とともに泥にまみれゆく指先に、
ミッターマイヤーとロイエンタールは胸に深い痛みを覚えた。

「…シャベルをもってきてくれ、ミッターマイヤー。
朝までには終わらせないと人目についてしまう…」
「わかった!」
ミッターマイヤーがシャベルを取って戻るとそのままキルヒアイスの墓を掘り始める。

そしてそのまま掘り進みやがてその棺の姿が顕わになった。

「……こ、これは!?」
「一体どういうことなんだ!?オレ達は狐にでも化かされているのか…!?」

以前全員でその棺の中にキルヒアイスの姿を見ていたはずだった。
だが今目の前にある棺にはキルヒアイスどころか人間の姿形もない。

「空、だ…」
困惑する3人だった。
ミッターマイヤーとロイエンタールが顔を見合わせそしてそのままその視線をラインハルトの方へと映すと
そこには腰を砕けさせて唖然とするラインハルトの姿がある。

「馬鹿…な、有り得ない…ッ余はずっと棺の傍にいた…こんな訳がないッ」
あまりの出来事にラインハルトは左右に首を振りながら棺の前に膝をつけて叫び声をあげた。

眠りにおちるように安らかなキルヒアイスのその表情は未だラインハルトの脳裏に焼きついている。

「…陛下、お言葉を返すようですが。本当に片時も離れませんでしたか?」
「おい、ロイエンタール…ッ控えろ」
そう話を切り出したロイエンタールに慌てて止めに入るミッターマイヤーである。

「なに…?」
「ですから…棺に入る時は我々全員でその姿を確認しています…そのあと、です。
棺の中をよくご覧下さい、陛下…」

ロイエンタールは棺の中に仕掛けられた立体映像装置を指し示した。

「棺は一度閉じられると外から誰かが開けるまで開きません…この映像装置は棺には元々なかったはず。
…だとすれば、外から棺を開けなければこの装置は入れられない」

「………ッ!」
その言葉にラインハルトは大きく目を見開かせた。

自分は片時もキルヒアイスの棺から離れなかったか?

記憶の奥に押さえ込んでいたその当時の辛い記憶を必死で辿るラインハルトだったが
ようやくここに来てその全てを思い出す。

キルヒアイスの訃報を聞いたアンネローゼからの連絡が入った時
アンネローゼと話をすべく確かにその時ラインハルトはその場を離れた。

そしてそのことを知らせにきたのは…

記憶の中にその人物の顔がラインハルトの中に浮かびあがると
これまで見たことのない光がラインハルトのその瞳に宿る。

拳を握り締め、歯を食いしばりながら
わなわなと怒りをその表情に顕わにさせてラインハルトが口にしたその名は。

「…オーベルシュタインッ!」

バウル・フォン・オーベルシュタイン。
その当時、ラインハルトの傍らで宇宙艦隊総参謀長を勤めていた男の名前だった。

「今すぐオーベルシュタインを出頭させろ!…大至急だッ」
「は…ッ」

そうして下されたラインハルトの命令にミッターマイヤーとロイエンタールは敬礼でそれに答え
キルヒアイスの墓所を駆け抜けてその場を後にしたのだった。

その場に取り残されることになったラインハルトは
泥まみれになった指先でキルヒアイスに宛てた墓碑銘をそっと撫でた。

”…キルヒアイス。オレは信じきれてはいなかった。
そうとも、オマエがオレを置いて先に死ぬ訳がない…”

確かな確信を得たラインハルトは拳を空で握りしめる。

”もうオレは間違えない…オレは全てを手に入れる”
そうして決意を新たに暗闇の先に光を見いだしたラインハルトは
獅子の泉に向かって往々しく歩き始めたのだった。

オーベルシュタインの屋敷に
ミッターマイヤーとロイエンタールが到着したのはそれからまもなくのことである。

「…これは、両提督。お揃いで」
別段驚いた様子も見せずにオーベルシュタインは入り口で二人を出迎えた。

屋敷はすでに憲兵に取り囲まれた状態にある。
それは全てミッターマイヤーの連絡を受けたケスラーが手配したものだ。

その後を追うようにようやく二人がオーベルシュタインの屋敷に到着したのだった。

「だが…少し遅かったようだ」
ミッターマイヤーとロイエンタールの前で悪びれもせずにオーベルシュタインがそう答える。

「なにを戯けたことを…ッ」
「すでに卿が2年前にガイエスブルグ要塞で何をしたのかは判明しているのだぞ…」
凄むようにオーベルシュタインとの距離を詰める二人にオーベルシュタインはさらに言葉を続けた。

「…ですが、せっかく上手くキルヒアイス提督をこちらへ呼び出したのに…
まんまと逃げられてしまいましたよ?」
「ま、まさかッいたのか?…キルヒアイスが、ここに!?」

思いがけないオーベルシュタインのその言葉に目を剥いたミッターマイヤーに
オーベルシュタインは頷きを返してそれを肯定する。

「もしや…卿か!キルヒアイスの情報を上層部に流していたのは…!?」
「同じ手は2度とは使えませんぞ…おそらくキルヒアイス提督はもうここへは来ないでしょう」

今回の騒動を動かしていたのはオーベルシュタインであったことに
ここに到って二人はようやく気がついたのである。

「何故だ…何故こんな真似を…ッ」
仲の良い親友の二人を交互に眺めながらオーベルシュタインは首を振ってこう答える。

「…おそらく、あなた方にはその理由は一生わかりはすまい」
独り言のようにそう言ってオーベルシュタインは小さな溜息を漏らしたのだった。

一瞬顔を見合わせたロイエンタールとミッターマイヤーだったが
すぐに視線をオーベルシュタインに戻すと話を再開させる。

「こんな茶番劇を仕組んだ理由をお話願えるか…オーベルシュタイン」
「それとも…陛下の御前で直接お話申し上げるか?」

「…よかろう。私の知るこれまでの真相は、陛下に直接お伝えすることにしよう」

そうしてオーベルシュタインは二人に同行して
ラインハルトの待つ獅子の泉へと向かったのだった。

ケスラーに出動要請がかかったのをきっかけに会議室には将校達がすでに集まっていた。
早朝からラインハルトが全員に召集をかけたためである。

これまでの状況はラインハルトに変わり獅子の泉へ戻ってきた
ミッターマイヤーとロイエンタールによって説明が行われた。

結局キルヒアイスの足取りはこれを境に完全に断たれてしまったのだった。

「ものの見事に…真っ白だ、全く大した手並みだ」
手にとった書類に目を通したラインハルトが呆れたような声でそう告げる。

「面目次第もございません…」
ケスラーを始めとする直接オーベルシュタインの屋敷にむかった
ミッターマイヤーとロイエンタールがラインハルトに頭を下げて謝罪した。

「…よい、それよりオーベルシュタイン。卿の話を聞こう」
静かな怒りを秘めた笑みを浮かべながらラインハルトは挑戦的な瞳をオーベルシュタインに向けた。

「それでは…まず、2年前のことからでもお話しましょうか」
そういってこれまでの事情をオーベルシュタインは語り始める。

オーベルシュタインによって繰り広げられるその話に
皆はそのスケールの大きさに度肝を抜かれることとなった。

この2年でキルヒアイスが形成したその情報網によって
帝国による銀河統一が驚異的にその加速度を増したこと。

銀河統一を推し進めるラインハルトの行動を助けるように動いていたのは時だけではなかった。

それにあわせてありとあらゆる情報がキルヒアイスから
オーベルシュタインの下に齎されていたのである。

その情報量は帝国だけでなく同盟、フェザーン、果ては地球にまでに及んだという。

キルヒアイスをその行動に駆り立てていたものは決して欲ではない。
すべてはラインハルトの銀河統一のためだ。

「…だが、なぜキルヒアイスは死ななくてはならなかったのだ?」
ラインハルトの素朴な疑問だった。
オーベルシュタインはその疑問に左右に首を振って答えを返す。

「それは陛下が直接本人にお聞きになるのがよろしいでしょう…
私ごときが答えるべきものではありません」

「…そういうこと、か」
ラインハルトは少し考えるように視線を泳がせながらそう口にした。

ラインハルトほどキルヒアイスのことをよく知る人間がいないように
キルヒアイスもまたラインハルトのことをよく知りそれを深く理解している。

そう考えればおのずとその考えや行動は読めてくる。

”だが、オマエはオレのものだ…オレは決してオマエを手離しはしない。
全てを奪ってこの宇宙を手に入れたようにこの手にオマエを取り戻してみせよう”

ラインハルトは立ち上がりその身を覆うマントを翻し、会議室の面々に宣言する。

「人間狩りだ…手段は選ばなくていい。
キルヒアイスをなんとしてでも余の下に引きずり出すのだ…ッ!」

こうしてかつてない大規模なキルヒアイスの捜索が
このフェザーンにおいて開始されるに到ったのである。

獅子の泉が騒然となったまま夜が更けていく。

そんな中自分の寝室でラインハルトはベッドで身体を休めながら
ミッターマイヤーの元に寄せられたキルヒアイスの映像をモニターに表示させた。

2年の月日の間にさらにキルヒアイスは精悍さを増していた。

”また背が伸びたか…?”
ラインハルトはモニターに映るキルヒアイスの今の顔の輪郭を指先で辿るように撫で上げる。

なぜ逃げる…?
オマエに帰る場所などオレの傍以外のどこにもオレは認めない、あってはならない。

次に出会った時こそもうオレは二度とオマエを離さない。

オマエに許しなど請いはしない、オレはオマエを支配する。
これまでにないオマエのその身を縛る鎖を与えてやろう。

乾いた上唇を潤すようにその舌で一撫でさせるとニヤリと笑みを浮かべてラインハルトは
そのまま冷たい画面のモニターに映るキルヒアイスの顔に自分の顔を摺り寄せた。

「…キルヒアイス…オレは、必ずオマエを手に入れる…必ず、だ」
熱に魘されるように画面越しのキルヒアイスに顔を摺り寄せてラインハルトは眠りについたのだった。

2.太陽と月に背いて-1
眠れない夜。
いつもそばにいたはずの存在が今はない。

見えない闇が怖くて怯えていたあの頃は、暗闇に潜む存在が怖かった。

大人になってもう暗闇を恐れることはなくなっていた筈なのにまた怯えている自分がいる。
今は暗闇に潜む存在が分かっているから怖いのだ。

あれは…もう一人の自分、そして─

”また…夢をみているのだな”
ラインハルトは浅い眠りに囚われながらぼんやりと夢の中でそう呟いた。

ここ最近ラインハルトは同じ夢に悩まされているのだ。

暗闇の中、キルヒアイスがいてその腕に抱かれ浅ましくその身体を求めている自分がいる。
それはまるでラインハルトがいつか見た悪夢のようだ。

身体を熱い楔で貫かれ、その身を震わせてそれを受け入れ
浅く、深く、その奥を抉られてその身にキルヒアイスを銜え込む。

身体を揺らしてその動きは徐々に激しさを増していく。

呼吸が動きにあわせて早まり、掠れた嬌声が動きに重なりあう。

背中を逸らせ己の最奥にキルヒアイスを受け入れ
やがて来る解放へと向かい始めるのだが…

「…は、…はあ…あッ」
眠っていたラインハルトが突然そこで夢から覚めて飛び起きた。

目を大きく見開かせ、体は汗に濡れて呼吸も速い。
シーツを握り締めながらラインハルトはその身を震わせる。

「…ッキルヒ、アイス」
目を硬く閉じてラインハルトから苦しそうな声が漏れた。

いつもそこで夢が覚める。

ラインハルトの夢には始まりも終わりもない。
いつも夢は途中で始まって途中で目が覚めて終わる。

おかげでラインハルトは中途半端に終わる夢から現実に戻るまで随分辛い思いを強いられてしまうのだ。

「なぜ、ここにオマエがいないんだ…ッ」
ラインハルトは歯軋りをしながらその身を震わせてシーツを更に硬く握りしめる。

キルヒアイスがいなくなってからはラインハルトはこういった夢を見る事はなかった。

この夢を見始めたのはキルヒアイスが生きていると分かってからのことだ。
その存在を求める姿が生々しく情事という形となって夢に現れているのである。

「…オマエのせい、だ」
ラインハルトはそんな愚痴を苦々しく口にしながら熱くなったままの自分の下肢へとそっと手を伸ばした。

翌日。
ラインハルトはキルヒアイスの捜索の状況を聞くべく、会議室に訪れていた。

「3日だ…もう3日になるというのに、何故まだなにも情報が入ってこないのかッ」

ラインハルトの激昂が会議室に響き渡った。

そんなラインハルトの様子を誰もまともに見ることが出来ないでいる。
ラインハルトは反応の返らない会議室の面々を一瞥すると乱暴に無意味な調査書を投げ捨てた。

「…なにかいいたそうだな、オーベルシュタイン」
ラインハルトが自分を見つめるオーベルシュタインの方へと目を向けると
オーベルシュタインは一瞬躊躇したような様子を見せたものの溜息交じりに言葉を返した。

「恐れながら…陛下。キルヒアイス提督がどこにいらっしゃるのか、本当にお分かりにならないのですか?」
「な、に…?」
オーベルシュタインの言葉に困惑の表情をしながら
ラインハルトはオーベルシュタインの次の言葉を待った。

「…つまり、キルヒアイス提督が隠れるとするならばどこが見つからないかということです。
この帝国の皇帝であるあなたでさえ立ち入れない場所がある…分かりませんか?」

正確にはラインハルトが立ち入りたくない場所なのだが、
その言葉にラインハルトははっと我に帰った。

ミューゼル家。

キルヒアイスの実家。

アンネローゼのいる別荘。

それはラインハルトが今最も近寄り固くそしてそっとしておきたい場所であり
憲兵を派遣させるなどということはとても今のラインハルトには出来ない場所だった。

「……ッ!」
ラインハルトが端正な顔を悔しさで歪ませると、
話を終わらせるようにオーベルシュタインが言葉を続ける。

「そういうことです…陛下同様、キルヒアイス提督もまた陛下のことをよく分かっておられる。
かの提督以上に陛下のことを良く知る存在も他にございますまい」

的を得たオーベルシュタインの言葉に次の言葉を出せずにそのまま沈黙してしまう
ラインハルトだったが顔を上げて軽く深呼吸をするとようやく声を発した。

「ミッターマイヤー、ロイエンタール…少し、頼まれてくれるか」
二人を近くに呼び寄せるとラインハルトはキルヒアイスの捜索を依頼した。

憲兵を派遣することは生活の場を荒らしてしまいそうなのでとても出来ないが
二人を自分の代理人として面会という形でならば問題はないとラインハルトは判断したのである。

「なんとしても…キルヒアイスを、連れ戻せ」
キルヒアイスのその巧妙かつ卑怯なやり口に少々怒りを感じたラインハルトは
その思いを抑えた声できつい目線を二人に向けながらそう告げたのだった。

”どこまで逃げても無駄だ…キルヒアイス。オマエの意思なんてもうどうでもいい…
オマエはオレの下へ戻らなくてはならない…そうあらねばならない、そうだろう?”

そしてラインハルトはミッターマイヤーとロイエンタールに捜索を任せ
そのまま会議室を後にしたのである。

「ふむ…まずどうするかな、卿は」
「…よもや実家ということはあるまい。どうしてもアシがつくからな…だとすると」

『大公妃殿下の別荘…』
二人して同じ結論に達したミッターマイヤーとロイエンタールはその視線をあわせ頷きを返した。

「乗りかかった船だ…最後までつきあうか」
「…少し、オレも興味がある」

”なぜ…今キルヒアイスが陛下の下に戻ろうとしないのか。
二人は誰もが認める親友同士であり、半身と呼んでも過言ではない存在なのに…”

少し考え込むロイエンタールにミッターマイヤーが不審げに声をかける。

「…おい、ロイエンタール?」
「いや、なんでもない…いこうか、親友殿」

そうして二人は行動を開始した。

会議室での出来事より少し以前、場所はアンネローゼのいるフロイデンの別荘でのことである。
母屋のリビングで編み物をするアンネローゼに身の回りの世話をする召使が声をかけてきた。

「今年もアンネローゼ様へ蘭が届いております…
今回の蘭はまた格別の出来とのことで、使いの者が持参したとのことですが…いかがなさいますか?」

「まあ…それは」
その言葉にアンネローゼは驚きの声をあげた。

元々ここへはアンネローゼの親しい知人以外はほとんど人はやってこない。
ましてや毎年届けられる蘭というのはキルヒアイスの父親が育てているもので
キルヒアイスがいなくなってからも毎年のように届けられている。

早速お会いしてお礼をいわなくてはならないとアンネローゼは
身支度を整えて使いのものが待つという温室へと向かった。

「……ッ」
そこでアンネローゼは思わぬ再会を果たすことになる。
アンネローゼはその目を大きく見開いたまま口元へと手をあてた。

「今年の蘭は直接お持ちしました…また見事な出来栄えですよ?アンネローゼ様…」
「ジーク…ッ」
そのまま駆け寄るようにアンネローゼがキルヒアイスへと近づくと
また成長した弟の友人をきつく抱きしめた。

「ジーク、ジーク…ッああ、よく生きていてくれました…」
言葉を途切らせながらアンネローゼは涙を流してその存在をかみ締めるようにさらに強く抱きしめる。

アンネローゼが落ち着くまでキルヒアイスはその身を動かさずに
今にも崩れそうになるアンネローゼを支えながらその抱擁を受け止めていた。

「あなたには謝らなくてはなりません…随分つらい想いをさせてしまいましたね」
「ジーク…」
その言葉にアンネローゼはようやく顔をあげてキルヒアイスの顔を見返すと
キルヒアイスはアンネローゼの目から溢れる涙を拭うように指先でそっと頬を撫でた。

「いいえ、いいえ…ジークッあなたが生きていてくれた、私はただそれだけでいいのです」
「アンネローゼ様…私は」
先の言葉をアンネローゼがキルヒアイスの口元に手をあててそれを遮る。

「いいのよ…ジーク。なにもいわないで…なにか事情があるのでしょう、
ここにいるといいわ…そうしましょう」

アンネローゼのところにもキルヒアイスが生きているという噂は入ってきていた。
そしてラインハルトによってその捜索が行われていることも…

だがキルヒアイスがラインハルトの下へと戻らないでここに来たということには
なにか事情があるのだろうとアンネローゼは判断したのだった。

「…です、が」
少し困惑するキルヒアイスにアンネローゼが苦笑混じりに言葉を続ける。

「ラインハルトはここへはこないわ…だから、なにも心配せずにここにいていいのよ?」
「アンネローゼ様…」

アンネローゼのその言葉にキルヒアイスは
ラインハルトとアンネローゼとの交流が途切れてしまっていることに気がついた。

「…それは、私のせいですか?アンネローゼ様」
「いいえ…全ては、私自身…そしてラインハルトの問題なのです」
そう話を締めくくるとアンネローゼは別荘へとキルヒアイスを招き入れたのだった。

そしてそのままキルヒアイスはアンネローゼとともに別荘で過ごすことになったのである。

日々蘭の世話をしたり、時には森に狩りにでて食事の獲物を獲り、
そして与えられた離れのリビングでアンネローゼとともにたわいない会話をしながら
キルヒアイスは穏やかな時を過ごしたのだった。

それからしばらくのことである。
ミッターマイヤーとロイエンタールがラインハルトの命を受けてアンネローゼの別荘を訪れていた。

アンネローゼは上手く話をかわしそのまま二人を帰すこととなったのだが
二人は地上車に乗った帰り道、森の中で狩猟犬を連れて狩りをするキルヒアイスと遭遇する。

キルヒアイスの姿を目撃した二人はその場で車を降りると慌ててその後を追った。

「おい、キルヒアイス…ッ!」
遠く離れたところにいるキルヒアイスにミッターマイヤーが大きな声を張り上げながら
キルヒアイスに向かって走り出す。

何度目かの呼びかけにようやくキルヒアイスはミッターマイヤーの声に気がついたのか
ミッターマイヤーの方を振り返るとそのままその場からの移動をやめた。

ミッターマイヤーを追うようにしてロイエンタールがその後へと続く。

「ミッタマイヤー提督…それにロイエンタール提督?」
思わぬ珍客に少し驚いた顔で首を傾げるキルヒアイスだったが
詰め寄ってきたミッターマイヤーが突然キルヒアイスの両方の二の腕を掴み取る。

「よく、よくぞ…生きていてくれたッキルヒアイスよ」
ミッターマイヤーはキルヒアイスにいろいろと言いたいことがあった。

いや、言わなくてはならないこともある。
だがミッターマイヤーの口から真っ先に出たのはその言葉だった。

それはラインハルトにはキルヒアイスが必要不可欠の存在であることを
ミッターマイヤーのみならず皆が既に思い知っていたからである。

ミッターマイヤーの後ろに立ち尽くすロイエンタールもその言葉を肯定するように
キルヒアイスを見つめ続けていた。

「なるほど、陛下の代理という訳ですか…ご足労をおかけしましたね…両提督には」
キルヒアイスが二人を交互に見やりながらそう答えを返す。

ラインハルトとアンネローゼの今の状態を考えて見れば
ラインハルト自身が直接ここへくるとはキルヒアイスには到底思えなかったからである。

ラインハルトの意図をキルヒアイスは二人の姿で読み取ってしまったのだった。

「キルヒアイス、陛下がお待ちだ…いこう」
「キルヒアイス…?」
ミッターマイヤーのその言葉に動こうとせずにキルヒアイスは首を軽く左右に振った。

「私はいけません…陛下にはそうお伝えください」
「戻らない気か…ッ何故だッ!?」
キルヒアイスの言葉に納得が出来ずにミッターマイヤーは激しく反論するが、
その様子にロイエンタールが手を顎にあてながらキルヒアイスの発言を推察しようと試みる。

見たところキルヒアイスは逃げる所か発見されるのをここで待っていたように思えたからだ。

「どうやら…この別荘から動かないでいたということは何か理由がありそうだな。キルヒアイス」
「私は…アンネローゼ様と陛下とのご関係をなんとか修復したいのです」
キルヒアイスの言葉に二人ははっとした。

アンネローゼとラインハルトはキルヒアイスがいなくなってから
全くの交流が無くなり、世間では不仲とまで噂がたっていた。

「私のせいで、お二人が仲違いするなどあってはならない…」

「聞こうか…卿の話を」
確かに皇帝の身内の不仲の噂などは外聞にもいい印象を与えない。
その辺りで同意を得たロイエンタールはキルヒアイスに先の話を促した。

「アンネローゼ様が陛下をお待ちしていると、そうお伝え頂ければ結構です。
陛下は必ずここへとお出でになることでしょう…」

「して…卿はこれからどうするつもりなのだ?」
ミッターマイヤーの言葉にキルヒアイスは目を伏せて言葉を返す。

「さて、どうしましょうか…」
「キルヒアイス…何故すぐ陛下の下へ戻らない…陛下はオマエの帰りを待ち望んでいるのだぞ?
ましてや卿と陛下は半身にも等しい親友同士ではないか」

「…半身、親友…いいえ、そんなものではありません。私は陛下の…下僕にすぎない」

”それどころか…今の私の存在はあなたの光を遮る暗闇だ…”

「なにをいっているのだ…」
「今のわたしはただそれだけの存在です…それ以上でも、以下でもない」
それだけ言うと口を告ぐんでしまったキルヒアイスを二人はただ見つめていた。

不思議な感覚だった。
キルヒアイスとラインハルトは唯一無二の親友同士であり、絶対の信頼を置く半身ともいうべき存在だった。
誰もがそう思っていた…いや、そうだったといってもいいだろう。

『おそらくあなた方には一生分かりますまい…』
ミッターマイヤーとロイエンタールに向けていった
オーベルシュタインの言葉がその時二人の脳裏に同時によぎっていた。

「…卿の言い分は分かった。そのまま陛下へはお伝えしよう」
そういってロイエンタールはミッターマイヤーを伴わせると
キルヒアイスに背を向けて車の方へと戻っていく。

その場に取り残されたキルヒアイスはそんな二人の様子を黙って見届けていた。

”親友、同士…か。確かに私たちにもそんな時があった…だがそれも、もう遠い昔の話ですが”

「………?」
ふとキルヒアイスが物思いに耽る中顔を空へと向ける。

”雪、だ…”

空からは花びらのように雪が舞い始めていた。
今年初めての雪がフロイデンの別荘に訪れたのである。

”あなたもまだ私と同じ夢の中にあるのですか…?ラインハルト様”

雪の中でもキルヒアイスが思うのはただラインハルトのこと。
そんな同じ思いの中にあることを二人はその時まだ気が付かないままでいた。

2.太陽と月に背いて-2
「下僕、か…囚われているのは果たしてどちらなのやら…」

翌日、ミッターマイヤーとロイエンタールからキルヒアイスとの再会での話を聞かされたラインハルトは
二人には聞き取れない程度の小さな声でそう呟きを漏らした。

「…陛下?」
「いや、なんでもない…二人共ご苦労だった、下がってくれ」
そういってラインハルトは二人を下がらせるとまた一人物思いに耽ける。

”…だが、捕らえるのは私だ。キルヒアイス”

「そのためには…まず、姉上にあわなくてはならない、か」
キルヒアイスがアンネローゼの下にいる以上顔を合わせない訳にもいかない。
いかにもキルヒアイスの考えそうなことだとラインハルトは溜息を漏らした。

”オレと姉上のことはオマエのせいなんかじゃないのに…相変わらず心配性なことだ”

ラインハルトは常にキルヒアイスを独占してきた。
幼年学校の頃より思いを通わせてその身すらも重ねて…

アンネローゼのキルヒアイスへの気持ちもラインハルトは
本当のところ知らずにいたのかも今となっては疑問である。

わざと考えようとしなかったのかもしれない。
だがラインハルトはこれからもあえてその目を閉ざし続ける。

”優しい姉上…同じ姉弟でありながら私は酷いエゴイストです。
私にはキルヒアイスが必要で、そしてそれは誰にも譲れない…”

そんなラインハルトの傲慢からキルヒアイスを失くした事実を知った
アンネローゼはラインハルトの下を去った。

ラインハルトを残してミューゼル家を去り
宮殿という牢獄の中でアンネローゼはキルヒアイスの存在に救われていたことだろう。

アンネローゼは自分とラインハルトのために
キルヒアイスがこれまでにどれだけ尽くして来てくれていたかをその時初めて実感していた。

だが自分とラインハルトによってキルヒアイスの人生を
狂わせてしまったのかもその死をもって思い知らされたのである。

自分達に出会わなければあるいは…などと、アンネローゼは考えずにはいられなかったのだ。

「また…姉上を泣かせてしまうかな」
唯一の肉親であり全ての始まりでもあった実の姉、そして大切でかけがえのない家族。

だがすでにラインハルトは選んでしまっていた。

自分のために家族すら捨ててしまったキルヒアイスを。
キルヒアイスが自分だけであるようにラインハルトもキルヒアイスを。

誰も自分を求めない中、キルヒアイスが自分を選び許し、全てを与えてくれた。

ラインハルトは見返りを求めないキルヒアイスになにかを返したかった。
望み、望まれて二人は結ばれたのだ。

”…姉上、私はいつもなにかを欲してばかりで奪うことでしか何かを手にいれる術を知らない。
ですが、そのために失うものの存在があることをこれからの私は決して忘れはしないでしょう。
…これは私のエゴです、姉上”

窓の方に目を向けてラインハルトは
アンネローゼに思いを馳せながらどこかに祈るように心の中でそう呟いていた。

翌日ラインハルトは早々に仕事を終わらせると
アンネローゼのいるフロイデンの別荘へと向かった。

キルヒアイスがいなくなって以来の事なのでそれは随分と久方ぶりの再会になる。

「…姉上」
「いらっしゃい…ラインハルト」
入り口に立ち尽くして自分を呼ぶラインハルトをアンネローゼは笑って別荘の中へと招きいれる。

別荘の中に入ったラインハルトは部屋の中をぐるりと見回した。

以前ここへは前帝国の皇帝の許可のもとキルヒアイスとともに訪れ
何度かアンネローゼと過ごしたことのある思い出の場所だった。

ラインハルトが一人でここへ来るのはこれが初めてのことである。

アンネローゼに誘われるままリビングへ入るとラインハルトがそのままテーブルにつくと
そこにはラインハルトの好物であるアンネローゼ手製のケーキが用意されていた。

「お口にあうといいけれど…」
遠慮がちにいうアンネローゼにラインハルトは
以前にもこんなことがよくあったなどと思いながらケーキを口へと運んだ。

懐かしい味とともにかつての思い出がラインハルトの中をよぎる。

「…姉上は私にはお会いになってくださらないかと思っていました」
ラインハルトは手で口元をふさぐと俯いてそう言葉を口にする。

「ラインハルト…」
「私は姉上の優しさに甘えてばかりの…昔と変わらぬ愚かな人間です」

そういったラインハルトをアンネローゼは目を瞠るように見つめた。

これが全銀河を統一した覇者の姿だろうか。

昔からこの弟は他人にはない強い覇気があった。

その将来を自ら切り開く雄雄しく成長し続ける弟をアンネローゼはたのもしく思ったものである。
だが今目の前にいる弟の姿は今まで決してみることのなかった苦悩の姿だった。

キルヒアイスを失ってラインハルトの下を去ったアンネローゼは
置いてきてしまった弟のことをいつも案じていた。

だが、自分が覇者の道を行くラインハルトの妨げになることは出来なかった。
そしてキルヒアイスを失ったラインハルトを支える立場になってもいけなかった。

全銀河の頂点に立つものに支えなどあってはならないからである。

「貴方は、ジークを…迎えにきた、のでしょう…?」
「…キルヒアイスを、キルヒアイスを連れて帰ってもいいですか?姉上」
ラインハルトはおそるおそるアンネローゼに言葉を返す。

「ラインハルト…」
「ずっとここで…キルヒアイスと二人、とは思わないのですか?」
ラインハルトのその言葉をアンネローゼは目を伏せて受け止める。

「もう、ジークは…いってしまったの」
だが再び目をあけたアンネローゼはラインハルトにそう静かに告げたのだった。

ミッターマイヤーとロイエンタールとの会話を交わした後、
キルヒアイスは山荘へ戻りすぐに出発の身支度を始めていた。

その様子を召使から聞いたアンネローゼが
慌ててキルヒアイスのいる離れへとやってくる。

「ジーク…ッ何故、どうしていってしまうの!?」
「アンネローゼ様…」
アンネローゼがキルヒアイスにしがみつくようにその身を寄せ
キルヒアイスの胸元に頭を摺り寄せるとアンネローゼはキルヒアイスを引き留める為に必死で訴え始める。

「いか、ないで…もうどこへもいってしまわないで…ッ」
「それは…命令ですか?大公妃殿下」
キルヒアイスの思いがけない言葉にアンネローゼは信じられないとでもいうような表情を浮かべ
キルヒアイスを見つめた。

「ジーク…ッ」
「…申し訳ありません。意地の悪い言い方でした…どうか、お許しください」
ラインハルトが間近に迫ったせいもあってキルヒアイスは少々心の余裕をなくしていたようである。

非礼をアンネローゼに詫びながらキルヒアイスは
そのまま自分に身を寄せるアンネローゼの身体をそっと引き離した。

だが思った以上にアンネローゼにはキルヒアイスの言葉が衝撃的だった。

かつてアンネローゼはこの弟の親友であるキルヒアイスに弟の面倒を頼んだ。
キルヒアイスは全てアンネローゼのいうようにする、そう答えたのである。

「命令だから…命令だから今までラインハルトの傍にいたというの…?」
「いいえ…そうではありません。ただ、なんとなく…あなたならどう答えるのかと」
…試してしまいました。そう、言葉が続いた。

「ラインハルト様ならば…即座に、私に命令したことでしょうね」
苦笑しながらそういってキルヒアイスはまとめた荷物を肩へと担いだ。

”私では駄目なのだ…ラインハルト以外に今のジークを引き止めることは出来ない”

アンネローゼはそんなキルヒアイスの様子に自分では
キルヒアイスを引き止めることが出来ないのだということをはっきりと自覚した。

「…まもなく陛下がここへこられます…どうか、ご関係の修復をなさってください
もしそれが私のせいならば、私は…私自身を闇に葬る以外の術を知りません」
「ジーク…ッ」
キルヒアイスのそのもの言いに不吉なものを感じ取ったアンネローゼは
最早キルヒアイスの嘆願を断る訳にはいかなかった。

「…会えないわ…私には会う資格がない、私はあの時
孤独になったラインハルトを手放してしまった…あの子を救おうとはしなかった…ッ」

「いいえ…アンネローゼ様。それは違います…昔も今もあなたは変わらない。
ラインハルト様にとって…貴女は、大切な大切なお方。
貴女が存在する、ただそれだけですでにあの方は救われているのですよ?」

それでもまだラインハルトに会うことに躊躇を覚えるアンネローゼを見て取ると、
キルヒアイスは胸元から取り出したものをアンネローゼの手の平へと差し出した。

古い鍵のようだった。それが何の鍵なのかはアンネローゼには分からない。
首を傾げるようにアンネローゼがキルヒアイスに問いかけた。

「これ、は…?」
「もしラインハルト様にお会いになれたら、これを渡しください…」
そういってキルヒアイスは目の前にいるアンネローゼを横切って出口へと向かっていく。

「ジーク、待って…!!」
「あなたと…そしてラインハルト様の存在だけが…私のすべてです。
それは、これから先もずっと私の中で変わることはありません…あなた方の幸福だけを、願っています」

それだけ言うとキルヒアイスはアンネローゼの制止も聞かずに散らつく雪の中、
フロイデンの別荘を後にしたのだった。

「…これが、その鍵ですか?」
黙って話を聞き終えたラインハルトがアンネローゼから差し出された鍵を受け取った。
そしてさらに言葉を続ける。

「私は…強欲でしょうか。キルヒアイスの幸福は私の元にはないのかもしれない。
だが私は逃げているキルヒアイスを自分の元に引き寄せようとしている…
私は姉上と…キルヒアイスがいないと幸福にはなれ、ない…
キルヒアイスと姉上はそう思っては下さらないのですか」

「ライン、ハルト…」

全銀河を統一し、その帝国の皇帝となったラインハルト。

だが幸福はその場所にはすでに残ってはいなかった。
全ては過去に失われ残ったものは…

「抜け殻だ…私の欲しいものはもうこの世のどこからも失われていた…」
ラインハルトは鍵を握りしめて席をたった。

「姉上…必ずキルヒアイスを連れて帰ります。どうか獅子の泉へお戻りください。
そして…以前のように三人で暮らしましょう」

「ラインハルト…ジークのもとへいくのね?」
アンネローゼの問いかけにラインハルトは確固たる意思をその瞳に宿したままはっきりと答えを返す。

「はい…」
ラインハルトの覇気がその身に戻った。

アンネローゼにはキルヒアイスを引き止めることは出来なかった。
だがこの弟ならばきっと全て叶えてしまえる…そんな確信がある。

”この子は未来に生きようとしている…これが私にはないこの子の強さ”
こうしてラインハルトとアンネローゼは長年の再会を無事に果たしたのだった。

皇帝の居城・獅子の泉への帰り道。
地上車の中でラインハルトはアンネローゼから受け取った鍵を胸元から取り出した。

”古い鍵…いつか、どこかでみたような”
しばらく記憶の中を探るように目を泳がせていたラインハルトだったが
ふいにその古い鍵のことを思い出す。

”…まさ、か。これ幼年学校時代に初めて二人で旅行したときの山荘の…”

ラインハルトがそう心の中で呟きを漏らすと
舞うように落ちてくる雪を地上車の窓から眺めながらその昔キルヒアイスと旅行した時の頃の回想を始めた。

あの時も雪が降っていた。
幼年学校の冬期休暇を利用して初めてラインハルトはキルヒアイスと二人だけの旅行をした。

キルヒアイスの両親がいつも冬期休暇を幼年学校で過ごす息子を案じて
もしよければラインハルトと二人で冬期休暇の間その山荘へいって過ごしてはどうかと
話を持ちかけて来たのがことの始まりだった。

キルヒアイスは帰る家のないラインハルトを気遣って決して家へ戻ろうとしなかった。

そんな中でのせっかくのキルヒアイスの両親の申し出を断るのも憚られ
ラインハルトは旅行を承諾したのだった。

そうして始まった二人だけの日々。
観光をして、買い物をしていつになくはしゃいで過ごした懐かしい記憶。

そしてクリスマス。
この日アンネローゼから贈り物として特にいって作らせたという
この世で二つしかない同じ細工を施した揃いの懐中時計が届いた。

今もなおラインハルトの胸元に光る金とそしてキルヒアイスには銀の懐中時計を。
胸元の懐中時計を握りながらラインハルトはそんなことをふと思い出す。

そして、二人はあの日を迎えたのだった。

それはとある事件がきっかけに二人は思わぬところで身体を重ねてしまうことになる。
やがて互いの誤解が解け、二人はそれから数えきれない程に身体を重ねて時を過ごしてきた。

”まるで天国みたいな場所だった…”

二人だけの空間。
何者にも捕らわれることもなく互いのことだけを思う。

そこには生々しい現実からは程遠い至福の世界があった。

優しく穏やかに流れる時間、そして時には身体を重ね互いの熱を確かめあう…そんな日常。

”そこがオマエの終着点か…キルヒアイス、オマエは今そこでどんな夢をみている…?
今のオマエの中にオレはいるか?…夢の中のオレをオマエは、抱いているのか?”

「陛、下…ッ」
地上車の中で驚いて叫び声を上げたのは同乗していた秘書官のヒルダである。

ラインハルトが考え事に耽りながら口元に近づけた指先を強く噛んだのだ。
思いのほか出血が多く、血の匂いが車内に広がった。

慌てて手元からハンカチを取り出したヒルダが
手を差し伸べてラインハルトの指先の傷の具合を確かめる。

だがラインハルトはヒルダの差し出した手をさらりとかわした。

「…いいんだ、フロイライン。このままで」
「ですが…陛下、随分出血しております。早く手当てをなさらないと」

車内で救急箱を探すヒルダに目もくれずに血の溢れる傷口にラインハルトは視線を映す。

そしてそのままラインハルトが指先の傷を口元に近づけてそのまま強く吸い上げると
血の味がラインハルトの口内に広がりを見せる。

ヒルダが救急箱を取り出してラインハルトの傷ついた指先に手当てを始めた。
ラインハルトはヒルダのその様子を見つめながら血の味が残る唇を舌でペロリと拭いとる。

同じ夢をみようといって二人身体を重ねたあの頃。

やがて互いの知らない場所などもう身体のどこにもなくなっていて、
それでもまだ足りないかのように時を惜しむように貪りあった。

啼き声をあげて、もっとこれが欲しいとラインハルトが強請ると
望みを叶えるようにキルヒアイスはそれに答え
絡みつかせた身体がまた熱で溶け合うほどに交わった。

そして解放の瞬間。
歓びとまた再び求める思いとが二人の中に交差する。

銜え込んだ熱い楔に熱く絡みつく内壁と絡めた足で
離れようとするキルヒアイスの身体をラインハルトは押さえ込んだ。

一つになったままずっと飽くことなく二人は抱き合い
まるで二匹の猫がじゃれあうように同じ体温を分け合った、あの日々。

”…夢じゃない。これは夢なんかじゃない。
キルヒアイス、オレはこれからオマエの夢を奪いにいく…
見るのはここにいるオレだけでいい…オマエのいない幸福などオレはいらない”

ラインハルトは回想に耽りながら心の中で何度もそう繰り返し続けていた。

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