雨の日に香を燻く
薄田泣菫
雨日进香
一
梅雨まへには、今年はきつと乾梅雨だらうといふことでしたが、梅雨に入つてからは、今日まで二度の雨で、二度ともよく降りました。
私は雨の日が好きです。それは晴れた日の快活さにも需めることの出来ない静かさが味ははれるからであります。毎日毎日降り続く梅雨の雨は、私のやうな病気勝ちな者にとつては、いくらか鬱陶し過ぎるやうですが、それすらある程度まで外界のうるささからのがれて、静かな心持をゆつくり味はふことが出来るのを喜ばずにはゐられません。
梅雨の雨のしとしとと降る日には、私は好きな本を読むのすら勿体ない程の心の落ちつきを感じます。かういふ日には、何か秀れたものが書けさうな気もしますが、それを書くのすら勿体なく、出来ることなら何もしないで、静に自分の心の深みにおりて行つて、そこに独を遊ばせ、独を楽しんでゐたいと思ひます。
到了梅雨季节,据说今年是一个非常干燥的梅雨季节,但自从进入梅雨季节以来,到今天为止已经下了两次雨,而且再也下得很好了。
我喜欢下雨天。那是因为即使是晴天的快乐也不能要求的安静的味道。梅雨季节每天都在下,对于我这样一个病入膏肓的人来说,似乎有些令人沮丧,但即使这样,也能在一定程度上远离外界的喧嚣,营造出一种安静的感觉。我不禁为自己能做到这一点而感到高兴。
在雨季淅淅沥沥的日子里,我感到心情平静得连读自己喜欢的书都浪费了。有一天,我觉得我可以写一些好东西,但写起来太浪费了,所以如果我能做什么,我就什么都不做,静静地深入我的内心深处。我想让它发挥作用,享受它。
香を焚くのは、どんな場合にもいいものですが、とりわけ梅雨の雨のなかに香を聞くほど心の落ちつくものはありません。私は自分一人の好みから、この頃は白檀を使ひますが、青葉に雨の鳴る音を聞きながら、じつと目をとぢて、部屋一ぱいに漂ふ忍びやかなその香を聞いてゐると、魂は肉体を離れて、見も知らぬ法苑林の小路にさまよひ、雨は心にふりそそいで、潤ひと柔かみとが自然に浸み透つて来ます。この潤ひと柔かみとは、『自然』と『我』との融合抱和になくてはならない最勝の媒介者であります。私の魂が宇宙の大きな霊と神交感応するのもこの時。草木鳥虫の小さな精と忍びやかに語るのもこの時。今は見るよしもない墓のあなたの故人を呼びさまして、往時をささやき交はすのもこの時です。
烧香在任何情况下都是好的,但没有什么比在雨季的雨中闻香更能让人心旷神怡的了。我出于自己的喜好,最近用檀香,一边听着雨声打在绿叶上,一边闭上眼睛,听着房间里飘来的隐秘的香味,灵魂离开了肉体,漫步在看不见的法苑林的小径上,雨打在心里,润一柔自然地渗透进来。这种润泽和柔软是“自然”与“我”融合和不可或缺的最成功的媒介。这也是我的灵魂与宇宙大灵神交感应的时候。与草木鸟虫的小精偷偷交谈也是在这个时候。这也是在这个时候,把你的故人从现在看不见的坟墓里叫出来,低声谈论过去。
香の煙の消えるともなく弱つて往く頃には、私の心も軽い疲労をおぼえて来ますので、私は起つて窓障子を押し開きます。心のうちに落ちてゐるとのみ思つてゐた雨は、外にも同じやうに降りしきつてゐるのでした。薄暗い庭の片隅に、紫陽花が花も葉もぐしよ濡れに濡れそぼつて立つてゐるのが見えます。幽界の夢でも見てゐるやうな、青白い微笑を眼尻にもつてゐるこの花は、梅雨時になくてならないものの一つです。くちなしの花、合歓の花――どちらも昼日なか夢をみる花ですが、紫陽花のやうに寂しい陰鬱な夢をみる花はほかにはありません。
当香的烟雾还没有消失,我的心也开始感到轻微的疲劳,所以我起身推开窗户拉门。我以为只下在心里的雨,外面也下得很大。在昏暗的庭院角落里,可以看到紫阳花湿漉漉地站着,花儿也叶子都被淋湿了。这朵花的眼角带着苍白的微笑,就像在幽界的梦里一样,是梅雨季节不可或缺的东西之一。唇瓣花、合欢花——都是白天做梦的花,但没有其他花能像绣球花那样寂寞阴郁地做梦。
紫陽花のすぐ隣に、立葵の赤と白との花が雨にぬれてゐます。梅雨季の雨と晴間の日光とをかはるがはる味ふために、茎は柱のやうに真つ直に突つ立ちながら、花はみな横向きにくつついてゐるのはこの草です。
就在绣球花旁边,立葵的红白相间的花被雨淋湿了。这种草的茎像柱子一样笔直地竖立着,花都侧着,为了吸收梅雨季节的雨水和晴天的阳光。
私は立葵を描いた光琳と乾山との作を見たことがありますが、兄弟相談して画いたかとも思はれる程互によく似てゐました。茎と花とが持つてゐる図案的のおもしろみはどちらにもよく出てゐましたが、土から真つ直に天に向つて突立つてゐるこの草の力強さと厚ぼつたさとは、乾山の方によく出てゐたやうに思ひます。作者の人柄が映つてゐたのかも知れません。
我看过光琳和干山画立葵的作品,他们长得很像,让人觉得他们是兄弟俩商量后画的。茎和花所具有的图案的趣味性在两者中都很明显,但我认为这种从土中直接向天突出的草的力量和厚实在干山中经常表现出来。也许这反映了作者的性格。
暫くするうち、雨は小降りとなり、やがて夕日が少しづゝ洩れるやうになりました。湿気を帯びた、新鮮な風がさつと吹いて来ると、ぐしよ濡れになつて突つ伏してゐたそこらの木々は、狗が身ぶるひして水を切るやうに、身体ぢうの水気を跳ね飛ばして、勢ひよく起き上りました。ひた泣きに涙を流した後の歓び――さういつたやうな静かな快活さがあたりに流れました。日暮前のこんな時に、しみじみと見とれるのは、合歓の花です。
过了一会儿,雨变小了,不久夕阳也稍微漏了出来。带着湿气的、新鲜的风呼呼地吹来,那些湿漉漉的趴在地上的树木,就像狗抽搐着要断水一样,把身上的水分溅了出去,气势汹汹地爬了起来。流下眼泪后的喜悦——一种安静的快乐流淌在周围。在日暮前的这个时候,能让人深深着迷的是合欢之花。
二
雨の晴れ間を田圃へ出てみると、小川には薄濁りした雨水が、田の畔を浸すまでに満ち溢れてゐました。それを見ると、小供の頃こんな出水のあつた晩に、よく鯰切りに出かけて往つた事を思ひ出しました。手頃の竹竿の端に草刈り鎌を結びつけたのを片手に、今一つの手には松明を持つて出かけるのです。くらがりの小川の岸づたひに、松明をふりふり辿つて往くと、火影を慕つた大鯰が偶にぱくりと水音をさせて、その大きな頭を流の上にもちあげます。と見ると、やにはに片手に持つた長柄の草刈鎌をふりかざして、その頭をめがけてはつしと打ちおろすのです。川狩としては少し残酷なやうですが、私たちの小供の頃は梅雨の雨が降り続いて、それが下り闇の夜にでもなると、誰がいひ出すともなく、
「鯰切りにでも出かけたいなあ。」
雨过天晴走到田里一看,小溪里满是浑浊的雨水,淹没了田边。当我看到它时,我想起了小时候经常在洪水泛滥的夜晚去切鲶鱼。他出门时一手拿着割草机镰刀,一手拿着火把。在昏暗的小溪岸边,挥舞着火把,仰慕火影的大鲶鱼偶尔会发出哗啦哗啦的水声,把它的大脑袋举到溪水上。一看到这一点,他就举起一把长柄的割草镰刀,朝他的头猛地砍了下去。对于川狩来说,这似乎有点残酷,但当我们还是个孩子的时候。
といふことになつて、二人三人小さな蓑笠を着て、大人の尻についてぼそぼそ出かけたものです。
いつでしたか、幸田露伴氏が京都大学の講師をしてゐられる頃、お目にかかつていろんな話のなかに、この鯰切りのことを話した事がありました。幸田氏は名高い魚釣の名人ですが、私の話を聞くと、不審さうに小首を傾げて、
就这样,两三个人穿着小蓑笠,跟着大人的屁股蹑手蹑脚地出门了。
不知是什么时候,幸田露伴先生在京都大学担任讲师的时候,我见过他,在各种谈话中谈到了这种鲶鱼切。幸田先生是著名的钓鱼大师,但当他听到我的故事时,他疑惑地歪着头。
「さうですか。しかし鯰は生れつきひどい臆病ものですから、松明のあかりを見たら、尻ごみこそすれ、水の上に浮き上つて来る筈はないんですがね。」
といはれました。私は折角の幸田氏の言葉でしたから、鯰が大の臆病ものだといふことは信じてもいいやうな気がしましたが、さうかといつて臆病ものだから水の上にぱくりと頭を持ち上げたといふのが疑はしいやうな口ぶりは承知が出来かねました。なぜといつて、私は小供の頃幾度かそれを見かけたばかしか、自分でも一度はその大きな頭に鎌を打ち込んだこともあつたのでしたから。
“是吗?不过鲶鱼生来就很胆小,所以如果看到火把的光,它就会趴在地上,浮到水面上。” 幸田先生对我说了这句话,所以我觉得我可以相信鲶鱼是一种非常胆小的东西,但我无法理解他的语气,因为他太胆小了,所以他把头举到了水面上。不知为什么,我小时候见过它几次,我自己也曾经把镰刀砍进过它的大头。
三
このごろ咲くものに、柿の花と馬齢薯の花とがあります。どちらも実を結ぶ事が出来たらそれで十分だ、その他のものは一切贅沢だといつたやうな、ごく簡朴で質素な花です。そこらの農夫が木の端くれで刻んだか、紙きれで折つたかといつたやうな、いはゆる農民芸術の味があるのはこの花です。柿の花のもつてゐるあの安香水のやうな甘いにほひも、自然が必要に逼られたからの小さな驕りに過ぎないのです。
最近盛开的有柿子花和马龄薯花。这是一朵非常简单朴素的花,只要两者都能结果就足够了,其他的都是奢侈的。这朵花有一种悠闲的农民艺术的味道,就像那里的农夫是用木屑刻的,还是用纸片折的。就像柿子花的廉价香水一样甜美,只不过是大自然需要它的小小骄傲。
四
草も木も緑をもつて誇りとしてゐるこの頃の世界に、たつたひとり、茎も葉も紫で、おまけに体ぢうから紫色の香をぷんぷん放散してゐる紫蘇こそは最も特色のある草です。そのむかし、京都円山の茶寮で、いろんな人の女房たちが衣裳比べをした事がありました。誰も彼もが金銀をつくして、贅沢を凝らしたなかに、ひとり中村内蔵助の妻は、尾形光琳の趣好で、打掛着付とも黒羽二重の無地、その下には白無垢を幾つも重ねてゐましたが、この方が見飽きがしないといふので、大層な評判をとつたさうです。紫蘇の紫にそれ程の趣好と用意とはなささうで、ことによつたら造化の絵具皿に紫の色しか残つてゐなかつた時の創造かも知れませんが、それにしても、色も香も紫づくめに塗りくつた放胆な意匠は季が季だけに充分の効果が見えます。
在这个以草和树都是绿色而自豪的世界里,只有一种,茎和叶都是紫色的,而且从身体上散发出紫色的香味的紫苏才是最有特色的草。很久以前,在京都圆山的茶寮里,各种各样的人的妻子们进行了服装比较。谁也他也金银,奢侈的情况下,一个中村内藏助的妻子,尾形光琳的情趣好,打挂穿着都黑羽二重的素色,下面是几个白色无垢重叠了,不过,这个人看不腻,所以很大的评价。紫苏的紫色似乎没有那么多的情趣和准备,特别是如果造化的颜料盘上只剩下紫色时的创造,但即便如此,颜色和香味都涂成紫色的大胆的设计在季节里都能看到充分的效果。